読むことと書くことについて

タイトル通り「読むことと書くこと」について書こうとしていた。いや、正確にいうと書いていたのだが、途中で先生にお伺いを立てたのが間違いだった。書いていた文章の100倍深いブログに出会い、そして書く気が失せた。なので、「書く気が失せた」という話を書く。


最初に、俺が書いていた文章の要旨を示そう。

「読む=受動的」で「書く=能動的」なのか?

結論→能動的に書くためには、能動的に読まなければならない。どちらも自分に成るために必要である。


以上を、100倍深く、且つわかりやすく書いてあるのがこのブログ。
本ばかり読んでるとバカになる: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる


では、本題。


「書く気が失せた」ときに、俺のなかで何が起こっていたのかを書く。

「書く気が失せた」とは何を意味しているか?

もちろん、「書く気があった」ということ。つまり、「書く」ことを前提として「読んで」いたら「書く気が失せた」。言い換えるなら、「書く気が失せるほどの読書体験」をした、ということだ。

「書く気が失せた」とはどういった状態か?

「書きたいこと」と「書けること」の差に打ちひしがれた、ということ。
打ちひしがれたのはしょうがない。だって、打ちひしがれたのだから。

じゃあ、どうする?

「書きたいこと」はわかった。あとは「書けること」を引き上げて、この差を埋めていけばいい。そして、「この差を埋めること」こそが、「書く」という行為の意味なんだろうと思う。
そんなわけで、こんな文章を書いている。