『評価と贈与の経済学』内田樹×岡田斗司夫 FREEexを読んだ。

さっき読み終わったばかりだし、この後すぐに出かけなければいけないのでとりあえず雑感だけ書く。


岡田斗司夫のまえがきがすばらしい。「著者の顔を想像しながら読む」ってのはある種、読書術()の基本みたいなところがあるけど、まさかまえがきで著者の一人に半ば強制されるとは思わなかった。


内田樹の語る「贈与」は『輪るピングドラム』のテーマとまんま一致。腐るほど言われてるかと思ったけどそんなに言及されていないみたいなんでそのうち書くかも。


・「努力をした時点で既に報酬を受け取っている」のと同じように、「贈与を送った時点で既に贈与を受け取っている」とは言えないか?そうであるなら、「贈与を受け取ること」それ自体が「贈与」になりうるのでは?具体的には、「人のアドバイスを真剣に聴く」とか、「お土産をもらったら素直によろこぶ」とか。これは「贈与を相殺する」ことになるのかな?


岡田斗司夫が「ぼくは○○って呼んでいるんですけど〜」って言うと議論のテンションが下がる。つまり、「既にまとまっている考えを発表する場」になってしまうから。対談ってのは内田樹が言うように、「自分が何を語るのか自分でも分からない」、「この後、話題がどう転ぶのか自分達にも分からない」ときにこそスウィングするもんなんじゃないかな。


まあ、こんなとこ。時間になったんで「内田樹×岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』出版記念トークライブ」に行ってくる。感想はたぶんそのうち書く。

腹が減って、呑みたくなって、いかついおっさんが出てくる映画 『苦役列車』(ネタバレあり)

苦役列車』を観た。大変おもしろかった。ノートにグダグダ書いたがまとめきれないので箇条書きにする。



腹が減る映画はいい映画だ

・貫多の汚ったねえ食い方が素晴らしい。最近観た中だと『哀しき野獣』の主人公がいい食べっぷりを見せつけていたが、方向性は違えどそれに匹敵する。

・食べ物の描写も素晴らしい。特に食堂のめし。ぼっそぼそになっためしを山盛りにして味噌汁をぶっかけて掻っ込むんだけど、すげえうまそうだった。で、森山未來がまたうまそうに食うんだわ。言い過ぎかもだけど、勝新版の座頭市を思い出した。


呑みたくなる映画はいい映画だ

・場末感たっぷりの居酒屋がたまらん。雑な野菜炒めで瓶ビール呑みたい。
らもさんが「野良仕事後のたばこがなんともうまそうでうらやましい」って書いていたけど、肉体労働後のビールはうまいだろうな。うらやましい。

・貫多ん家での部屋呑みもいい。テーブルすらないから畳にコップを直置き。つまみは確認できなかったけど、まあ、するめ辺りだろうな。
中村航『突き抜けろ』の木戸さん家を思い出した。


貫多について

・正二と初めてご飯を食べるシーンがいい。

同い年ってだけですぐに打ち解ける貫多。

正二のつまらない冗談に口の中をごはん粒でいっぱいにしながら不細工に笑う貫多。

今までの生き方に「かっこいいよ」と言ってくれた正二の顔を、正二からは見えない角度で恥ずかしそうに、でもうれしそうに見つめる貫多。

たまらん。

・正二に出会うまで貫多は孤独だったけど、ありがちなキャラみたく拒絶したり虚勢を張ってたりしている訳じゃない。寂しくてしょうがないし友達が欲しくて欲しくてたまらない。その思いは隠してはいるけど、ちょっと突かれただけですぐにあふれ出てしまう。このあふれ出る感情がたまらなく魅力的。

・貫多がダメなのは、そのほとんどが「人とどう付き合ったらいいのか分からない」ってのに起因している。そして、その原因になったのは父親の性犯罪からの一家離散。このとき、「俺はわるくない」と言うこともできたのに、貫多はそうすることなく「どうせ性犯罪者の子供ですよ」と卑下することを選んだ。
どちらがよかったのかは分からない。「俺はわるくない」ということは自己憐憫に浸るということで、捻くれたクズになる可能性もある。自己卑下するということは、「人のせいにすることなく丸ごと自分で受け入れる」ということだ。だから、正二からの「かっこいいよ」という肯定の言葉を素直に受け入れることができた、とも言えるかもしれない。


細かいところで

・後半、貫多の語彙があからさまに増えている。口論になるシーンが増えているからってのもあるけど、おれは「小説を書き始めたから」なんじゃないかなと踏んでいる。
ラストシーンの原稿用紙がゴミの下に埋まっていたのも、前に書いていたことがある、ってことだし。
きっかけは、もちろんスナックでのマキタスポーツ

・初めてあっちゃん家に行ったのってあっちゃんのバイトの後だよね?部屋に入ったらいきなり朝になってたからてっきりヤっちゃったのかと思ってたけど、あれはどういうこと?

・その後あっちゃんの手を舐めるけど、その直前にあっちゃんはじじいのちんこをさわってんだよね。貫多は気付いてないみたいだけど。

・ライオンズの帽子を被ったいかついおっさんのいかつさがいい。*1いかついおっさんが出てくる映画はいい映画だ。

・あと、正二って、あれ童貞だったよね。

*1:AV男優の花岡じった(柳光石)とのこと

ブッチャーズ吉村が死んだ。

最初に言っておくが、正直ほとんど思い入れは無い。けど、思いの外ショックだった。
理由はいくつかある。来月ライブを観るはずだったこと。その予習の為に、久しぶりに聴いた曲がなかなかカッコよかったこと。そして、ひさ子のことを考えてしまうこと。


ブッチャーズを最初に意識したのはいつだろうか。たぶんナンバーガールの解散ライブでの向井のMCか、1枚目の『極東最前線』のどっちかだと思う。どちらにせよ、初めて聴いた曲が『さよなら文鳥』なのは間違いない。

当時のおれの好みとは全然合わない曲調だったが不思議と心に残った。良さはよく分からなかったけど、「こいつらのことは覚えておいた方がいい」と思った。その後は、良い評判は聞くものの特に聴くことはなく、いつの間にかひさ子が加入。そして、結婚していたことを知った。結婚していることを教えてくれた友だちが、「吉村は幸せな結婚生活を送ると良い曲を書けなくなる。幸せになってほしいけど、幸せにはなってほしくない」と言っていたのが印象的だった。


ひさ子加入をきっかけにアルバムを3枚くらい借りた。が、ほとんど聴いていない。どころか、1曲も憶えていない。その頃には、すっかり音楽熱が冷め切っていたので「どんなものかちょっと聴いてやるか」くらいにしか思っていなかったんだろう。


そして先週。『やついいちろうフェス』にブッチャーズが出ることを知り、少し考えた後、チケットを買った。ひさ子がギターを弾く姿を観たかったからだ。

おれはひさ子がギターを弾く姿を観たことがない。何と言うか、そのとき初めて「おれはひさ子を観たことがない」ということに気が付いた。そして、観たくてたまらなくなった。でも、たぶん来月には観れない。
どうして今まで観に行かなかったんだろう?これまでだって後悔したことがたくさんあったはずなのに。


清志郎の追悼コンサートで矢野顕子が「バカヤロー!生きてるうちに聴きに来い!」と叫んだと何かで読んだ。あまり良く覚えていないから他の誰かだったかも知れないし、もしかしたらそんなことは無かったのかも知れない。けど、そんなことはどうでもいい。
どうしてか、「生きてるうちに聴きに来い!」という言葉におれは「ホントそうだよな」と思った。

それでどうしたか?

おれは何もしなかった。「ホントそうだよな」と思ったのに、おれは何もしなかった。
そして、ゆらゆら帝国が解散した。観に行かなかったことを後悔した。
何度目の後悔だろう?でも、本質的には何も変わっていない。

今回のことだってそうだ。たぶん、これからもおれは変わらないと思う。

何が言いたいのか?

そんなものは何もない。ただ、何となく思ったことを書きたくなっただけだ。
故人を偲ぶ気持ちはある。それでいいじゃないか。

「早起きなんて起きるだけだ、誰にだってできる」という話。

早起きを再開した。
半年くらい前まで半年くらい続けていたのだけど、いつの間にかやめていた。どうしてやめたのかは覚えていないし、再開した理由も特にはない。ただ、漠然と「いつでも再開できる」と思っていたので、それを確かめる為に再開した、とも言えるかも知れない。

たかだか数ヶ月続けていただけのことなので習慣とは言えないかも知れないが、それでも数ヶ月続けていたことには意味がある。それは、「いつでも再開できる」と思えたことだ。おれはクソみたいな人間なので自分にできそうにないことは端から諦めているし、やってみようとも思わない。けど、「できるだろうな」と思えることならやってみるし、それはたぶん、できる。それができなかったとしたら、「できなかった」のではなくて「やらなかった」だけだ。どこかのブラック企業の社長が言いそうなことだけど、おれ自身に限るなら、この言葉はたぶん正しい。ただ、「やればできること」をやり続けることはなかなかに難しい。

なんで難しいのか?「おれがクズだから」だけではない。少し掘り下げよう。

「やればできることをやり続ける」ということは、「人生、するかしないかの別れ道で“する”方を選び続ける」ということだ。そんな真似は常人にはなかなかできるものではない。*1

じゃあ、どうするか?

おれみたいなクズは「するかしないかの別れ道」に立ったら「“しない”方」を選んでしまう。だったら、別れ道なんかに立たなきゃいい。
“する”か“しないか”の選択肢があるから迷うし、迷ったら大抵楽な方を選んでしまう。“する”という選択肢しか無ければイヤイヤながらも、“する”。
幸か不幸か、おれの会社には有給というシステムが無いので、おれみたいなクズでも二日酔いくらいだったら(だいたいは)会社に行く。「会社を休む」という選択肢がそもそも無いからだ。


話を戻そう。

早起きに関して言えば、目覚まし時計が鳴ったときに、「すぐに起きるか、もうちょっとだけ寝るか」という選択で「すぐに起きる」を選び続けるのは至難の業だ。おれにはできない。でも、「目覚まし時計が鳴ったら問答無用で起きる」という自分ルールを設定して、それに従うことならできる。「何も考えずに決められた作業を行うだけ」だ。*2
第一、「早起き」ってのはやっていることは寝坊したときと同じく「起きる」ってことだけなんだよね。早いか遅いかの違いだけで何も特別なことをやる訳じゃない、ってのに気付いてからは、もう楽勝。だって起きるだけなんだもん。

で、たぶんこういったことは他にもたくさんある。それを探し出して、改善していくのはなかなか楽しい。

*1:と言うか、そんなことができるのはロッキーか岡本太郎くらいのものだ。

*2:もしかしたら200万円も手に入るかもしれない。

改めて、「もやもやする」ということについて

この間の続き。*1

グダグダとノートに書き殴ったんだけど、それをまとめる能力が無いので結論だけ書く。


もやもやとした思いや感情は…

・考え続けることによってやがて1つの言葉に収縮していく←まちがい

シュレディンガーの猫よろしく、言葉として観測されることで初めて「自分はこう思っていたのか」と認識できる←せいかい


これが正しいかどうかはわからんけど、今日のおれはそう感じた。
で、もしそうであるなら、自分が感じたもやもやくらい、自分の言葉で認識したい。

だから、書く。

*1:かなり端折ったので全然続いていないが。

「もやもやする」ということについて

ここ1ヶ月間なかなか忙しく働いていた。この忙しさが世間一般のサラリーマンと比べてどうなのかはわからないけど、なかなか忙しく働くという経験がなかなか面白かったのでそんな話を書く。


先週くらいまではなかなかに充実した毎日を過ごしていた。あんまりまじめに働いたことがなかったので、「残業している俺カッケー!」とか、「まじめに働く俺TUEEE!」とかね。んで、まあ、あんまり自分の時間をつくれていなかったんだけど、忙しい時期だしってことでほとんど気にしていなかった。で、仕事に一区切りついた辺りで「あ、これってちょっとまずいな」と思った。


「あ、これってちょっとまずいな」と感じたのはあの「もやもや感」が襲ってきたからだ。「あの」っていっても他の人が感じているかは知らんけど、「生きることについて」とか「自分とは」みたいな、つまりは中二的なあれだ。勢いで「襲ってきた」と書いてしまったけどそんな風に思っている訳ではなく、どっちかって言うと「戯れる」とかそんなんに近くて、酒を呑みながらそのときどきのもやもやをグダグダ考える〜、ってのはおれのなかなかに好きな時間でもある。


まあ、その「もやもや感」を感じたときにようやく、「忙しく働いていたときには全くもやもやしていなかった」ということに気が付いた。もやもやグダグダしている時間ってのは単純に楽しいってだけではなく、「おれがおれでいる(と思い込む)ため」に必要な時間なんだと思う。少なくともおれはそう思っていた。そう思っていたのに、ちょっと仕事が忙しかったからって、もやもやすることを忘れていた。挙げ句、「最近は充実しているなぁ」だって。もうね、アホかと。馬鹿かと。自分にがっかりですよ。


で、その後はめでたくここに書いた様なことについてもやもやグダグダ考えていたんだけど、ふと「多忙は怠惰の隠れみの」という言葉を思い出して、もやもやが「すとんっ」と収まった。そして、この「もやもや→すとんっ」に関しててきめんにもやもやしてきたんだけど、その事については、たぶん、そのうち書く。

改めて、ブログを書くということについて

ブログを更新できなくて2ヶ月くらい経つ。書きたい気持ちはあったしその間もノートは書き続けていたから書きたいことはいくらでもあった。でも、書けていない。から、改めて「ブログを書くこと」について書く。


前にこのブログの目的を「ネットへのアウトプット」と書いた。その気持ちは変わっていないけど、「ネットへの」という気持ちが少し強かったのかもしれない。つまり、(ネットに公開するのだから)それなりの質にしなければいけない、それなりの体裁を整えなければいけない、という気持ちがあったのかも。


以前書いたように、俺は自分が納得できるような文書を書けない。これは(今の段階では)しょうがない。克服するには書き続けることによって文章の質を上げることと、自分の文章に慣れて自分へのハードルを下げるしかない。だから、「質」については将来の自分に期待することにして一旦は諦める。


もう一つの「体裁を整える」が問題。ノートの場合は、そのときに考えていることの断片をただ書いているだけで書きたいときに書くし、好きなときにやめている。でも、ブログの場合はそうじゃなかった。それなりに意味のあることを書こうとしていたし、なんとなくの結論を書こうとしていた。でも、おれが考えていること(つまりは、ブログに書きたいこと)には答えなんかないし、安易に結論なんて出せない。だから、ブログは書けない〜、とかそんな単純な話じゃないだろうけど、とりあえずは起承転結の結を気にせずに書いてみようかなと思っている。まあ、これも結といえば結なんだろうけど。